2007年11月号 1面
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 困っているあなた!預託時間をいま使おう

 利用者になって知るナルクの温もり

 高齢者が互いに助け合える地域づくりを
 「ナルクというNPOでボランティアをやっています」と言うと、最近では「ああ、あの時間預託の・・・」という答えが返ってくるようになった。マスコミの露出度が増えたせいだろう。
 世間一般は勿論、我々会員も「元気なうちにせっせとボランティアをして、時間を預託し年をとって自分が動けなくなったら助けてもらう」というイメージで理解しているようだが、預託時間を使うのは何も老後に限ったことではない。いま困っているあなた、もっと気軽にナルクに声をかけみては。
 ナルクは単なるボランティア団体ではない。高齢者の助け合いと共生を旗印に掲げ、温もりを感じる団体でありたいと願っている。同士的繋がりを大切にして、本当に困ったときに頼りになる存在でありたいのだ。
 これからご紹介する2人のケースから、あなたも「ナルクに入っていて良かった」の思いを実感していただければ幸いである。(文中敬称略)

 人世何が起こるか分からない
 石丸聰、69歳。5年間奈良拠点の代表を務めた。 平成18年8月10日、それは石丸にとって悪夢のような1日だった。
午前中に拠点の仕事を片付け、昼過ぎに家に戻ると、家の前は黒山の人だかりである。
「奥さんが車にはねられ病院に運ばれました」「えっ なに!」
 石丸は絶句した。夢中で病院に駆けつけた。
 妻清子(すがこ)は、意識不明のまま病院のICU
のベッドの上で眠っていた。
それは何事もなかったような穏やかな寝顔だった。
 しかし骨盤に大きなダメージ、両腕、大腿部など数カ所の骨折という大事故だった。首から上が無事だったのが不幸中の幸いだった。 
 その日から石丸の戦争が始まった。3人の息子もすぐに駆けつけてきたが、仕事も家庭もある身では、長期の戦力にはなり得ない。
「よし、ナルクだ、ナルクの仲間に相談しよう」。石丸の頭には真っ先にナルクが浮かんだ。
 副代表の江島以下、運営委員の全員が「仕事は忘れてください。そして何でもいってください。こんな時のナルクじゃないですか」 あとは任せろ、といってくれた。
「胸が熱くなりました。これで後顧の憂いなく、妻に付き添ってやれる、この安堵感が何物にも代え難かったと思います。事実、奈良拠点は中ブロック、南ブロックを中心に完全なバックアップ体制を敷いてくれたのです」 
 石丸は1年前を思い出すと、今でも涙が止まらないと言う。

 ナルクの温もりと近所の底力 
 3日後に清子の意識が戻った。どうやら命はとりとめた。石丸の祈りが通じたのだろう。
 ダメージが大きかっただけに痛みはきつい。動かない両腕・大腿部・肩に、容赦なく痛みが襲う。しびれもきつい。
 面会謝絶のまま、個室に移って長期の治療体制に入った。
 医師と看護師たちの適切な処置で清子は順調に回復した。あとは根気よくリハビリを続けるだけだ。
 ナルクの仲間、近所の人の献身的援助は毎日続いた。片道20キロの病院の送迎、家の掃除、買い物、庭の草取り、それは石丸にとって、お金や点数では買えない宝だった。夫婦で貯めた150点の預託点数は使い切ったが、点数外の善意の奉仕は言葉にも数字にも表せない物だった。 
 そして11月の末、完治には至っていないまま、退院の日がきた。どんなに良い病院でも「入院は3ヵ月、病院でのリハビリは6ヵ月以内」という制度が大きく立ちはだかる。あとは介護保険を申請し、しかるべき場所でリハビリを続けるしかないのだ。石丸は現行医療制度に大きな疑問をもった。
 家もバリアフリーにし、風呂もトイレも改装した。しかし介護保険の問題点も、身をもって実感する日々であった。
 新年度に入り、代表の役も辞任した。まさに 「市長の代わりはいても夫の代わりはいない」といって辞職したあの高槻市長の心境だった。
 しかし今の石丸には休日はない。介護には日曜も正月もないのだ。
 ともすればリハリビリも怠りがちになる病人を叱咤激励し、自らにも活を入れ、毎日を送らねばならない。それを支えてくれたのがナルクの仲間だった。
 奈良拠点は同好会活動も活発だ。石丸の碁の仲間は正月には「新春囲碁大会」を家でやってくれた。清子の歌の仲間もしょっちゅう見舞いがてら家に来て、おしゃべりをしながら励ましてくれた。年末にはナルクのサロン(友達の木)でついた餅や、オセチも届けてくれた。それは口では言えない心の支えであった。
「話し相手や送迎には、なるべく新しい方に来ていただき、ナルクの話をさせてもらっています。口幅ったい言い方ですが、ミニ新人研修といったところです」。今の自分にできる唯一のお返しだと石丸は言う。

 元気が取り柄の私がなぜ?
 田中緑、元気印の見本のような「大阪のおばちゃん」である。現在大阪拠点の副代表を務める。600人の会員のコーディネートを一手に引き受け、毎日精力的に動いている。
 
 彼女が体の異変に気がついたのは昨年の5月だった。若干の躊躇はあったが、思い切って大病院の門をくぐった。綿密な検査の結果下された診断は、初期の子宮ガンだった。
 「身体だけが取り柄なのヨ」、いつも周囲にこう漏らしていた田中である。青天の霹靂とは、正にこのことを言うのだろう。
 「あの日はどうやって家に帰ったか覚えていないんです」と彼女はいう。おそらく頭の中が真っ白になっていたのだろう。
「何でわたしが…」「こんなに元気なのになぜ…」。色々なことが頭を去来した。
 しかし彼女は冷静だった。「現代医学を信じよう。医者が手術を勧めるのなら、先ずそれに従ってみよう。あとは運を天に任そう」
 早速2人だけの家族会議が始まった。
 「私は子どもがいません。主人もまだ現役で仕事を持っています。家事の全てを任すというわけにはいかないのです」と彼女はいうが、彼もできるだけの協力はする覚悟だった。
「この際、思い切ってナルクに甘えよう」、 2人が出した結論はこれだった。
 相談を受けた拠点の事務局は、代表の広岡以下万全の体制を整えた。彼女の希望で病名は伏せられたが、いつ入院してもいいような環境は整った。

 緊急入院で半年に使った預託点数は百点
 手術は8月22日に行われた。真夏の暑い日だった。思ったより大手術になった。4日後に腸閉塞を引き起こし、2週間の絶食を余儀なくされた。おかげで体重は7キロも減った。しかし肝心のガン細胞は見事に摘出できた。早期発見の成果である。
 「今思っても、あの日病院に行っていなければ、今の私はないと思います」、田中は述懐する。
 秋の気配の漂いはじめた9月の中頃、彼女は夫の待つ我が家に帰ることができた。
 さあ、そこからがナルクの出番だった。仲間が交代で家事援助にあたった。9年間も頑張って「老後のため」と貯めてきた預託点数は700点もあった。年明け2月、元気になるまでの半年弱で100点余りを使った。
「例え点数がなくても田中さんのためなら、何でもしたと思います」。活動に当たった仲間の1人が言った。
 「嬉しかったですね。
点数を自分のために今使えたことも感謝でしたが、ナルクの仲間の輪を自分の肌で実感できたのが何よりも嬉しかったです。そして私の生き甲斐はナルクだと、改めて認識させられました」。
 ナルクがあったから今の私がある、田中のこの言葉が全てを物語っているようだ。
 さあ、今お困りのあなた、思い切ってあなたの街のナルクの門をすぐに叩いてみよう。  
                                 (取材と文・山田芳雄) 

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