2006年12月号 1面
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      中国帰国者に継続的な支援の手
 「信州まつもとだいら」が残留孤児と深く交流
   捨 て て お け な い 生 活 困 窮 と 孤 独
 
 中国残留孤児の帰国が始まったのが日中国交正常化後の1972年であった。30余年が過ぎた昨今は、その肉親捜しも帰国も峠を越えた観があるが、日本側の受け入れにも問題があり、各地で裁判沙汰になっているのは不幸なことである。
 日本語が分からないとか、日本の文化や習慣になじめないと言った孤独な悩みを抱える彼らであるが、根本には生活困窮という問題があることに注目せざるを得ない。政府の対応策も急がれるが、ナルクの拠点「信州・まつもとだいら」が設立以来この問題に関わって来て、大きな感謝と信頼を集めている。その様子が去る10月9日の帰国者長野県大会で報告された。
 中国帰国者は信州だけでなく全国各地に定住している。ナルク「信州まつもとだいら」の活動をヒントにして、各地で草の根型の支援の輪が広がることを期待したい。金銭的な支援も大切だが、同時に彼らが日本語を覚え、技能を習得し就労できて生きていけるための生活に密着した交流支援が必要なのではなかろうか。

         中国残留孤児の現状

 昭和47年から始まった帰国事業は今年で34年目を迎える。帰国者の数は全国で2万人を超える。当時平均40歳代だった彼らの年齢も、今は高齢化し、記憶も手がかりも薄くなりつつある。
 帰国者の数は、都道府県別に見ると1位が東京都の1122人で、以下長野県の402人、大阪の387人、神奈川の351人と続く。逆に少ない県は鳥取12人、徳島16人、福井22人といったところ。
 帰国者2世は、日本語も話せ、日本社会にも溶け込んでいるが、高齢化した1世たちは生活保護を受けている家庭も多く、生活は非常に厳しい。
 厚労省も本来ならば「お帰りなさい、よく頑張ったね」というのが彼らを迎える原点だと思うが、北朝鮮からの拉致被害者と違って「特別な措置はとら ない」というスタンスである。そのために全国各地で救済を願う裁判が起こっていることは遺憾なことだ。

         「信州まつもとだいら」の取り組み

 前述のように長野県は全国で2番目に中国帰国者が多い県である。松本市にあるナルクの拠点「信州・まつもとだいら」では拠点設立当時からこの問題に関心を寄せていた。
 ナルクと帰国者との最初の出会いは、昨年の1月、拠点が中国料理の講習会を開いたことに始まる。
 その日のテーマは餃子であったが、長野県の「松本地方事務所」に相談したところ、中国帰国者で作る「陽だまり」という会から帰国者数名を講師として派遣してくれた。
 もちろん言葉も通じないし、最初はぎこちなさもあったが、地方事務所の担当の方が通訳も兼ね、間に入ってくれたことで、2回3回と続けるうちに次第に彼らもうち解けて、心を開いてくれるようになった。
 秋には逆に彼らの方から「日本の家庭料理を教えて欲しい」という要望が出て、おにぎり、みそ汁、漬け物の講習会を開くこととなった。「おにぎりは3角に握る、みそ汁は出汁をとり豆腐は煮込まない」など基本的なことを教えたが、とても喜んでもらえた。
野沢菜の本場だけに漬け物の指導には一段と熱が入った。
 今年の春には稲核菜(野沢菜の一種)の種まきから経験してもらったり、ウオーキングの会にも参加してもらったり一段と交流が進んだ。
 拠点代表、守安威象氏は「お役所の支援策は日本語教室といった頭で考えたものになりがちですが、私たちは目を外に向けたのです。自然と触れ合い、人と触れ合うことで、本音の付き合いができるようになったと思います」と語っている。
 今年は稲核菜の種まきだけでなく、馬鈴薯の植え付け、田植えも共同で行った。田植えには帰国者が25名も自発的に参加してくれた。
 7月には県の方から「ナルクとして正式に支援をして欲しい」という要請があった。拠点としては「陽だまりの集い」という支援活動でその要請に応えることとした。

          秋の収穫
 9月16日、帰国者14人とナルクの会員20人が集まり、春に植えた馬鈴薯を収穫し、それを使った料理教室を開催した。出来上がった料理はコロッケと肉ジャガ。
 活動に参加した帰国者の一人、竹内政子さん(73)は「私は10歳の時に黒竜江省にわたり、62歳で帰国しましたが、ナルクの活動を知るまでは家でテレビを見るだけの引きこもりの生活でした。陽だまりの集いに参加するようになってからは、友達もできたし充実した日が送られるようになりました」と語っている。
 9月30日には、皆で5月に田植えをした「秋田こまち」の収穫祭を行った。ナルクの会員、帰国者の家族、ボーイスカウトの小学生などでこの日は総勢80人となった。ナルクの高畑会長も参加した。
 後日この米を精米し5キロ入りの袋に詰め配布したが、80袋もできたのは感激だった。
        
        帰国者の弁論大会

 10月9日には「中国帰国者長野県大会」が開かれ、そこで帰国者たちの日本語による弁論大会が開かれた。残留孤児の皆さんも日頃の日本語の成果を発表したが「陽だまりの集い」に参加されている石坂政敏さんの弁をご紹介しよう。

                    「故郷よ」

 私は昭和20年、旧満州で生まれました。父は開拓村から徴兵され、翌年シベリアで亡くなりました。
 母は病気の私と養父との間に生まれた妹を必死に育てました。故郷、長野県のことは1日たりとも忘れたことはないといっておりました。
 その母も昭和26年の春に貧困と愁いの中、この世を去っていきました。養父もその後すぐに亡くなり、私は本当の孤児になりました。
 その後成人し結婚もしましたが、望郷の思いで一杯でした。
 平成8年、私たち一家5人は、ようやく待ちに待った祖国、日本に帰ることができました。日本に帰ってから一番困ったのは言葉の壁です。運転もできない、言葉も上手く話せない私は、肉体労働の仕事しか見つかりませんでした。
収入が少なく、年金も加入期間が短いので、老後の生活不安と孤独を常に感じていました。
 一昨年、長野県の支援組織を通じてナルクというボランティア団体の皆さんに出合いました。ウオーキング、野菜作り、田植えなどのイベントを通じ皆さんの情熱と親切に接し、孤独の世界から脱することができました。
 ある日、いつも送迎をしてくださる宮崎さんが、雄大なアルプスのよく見える高原へ案内してくださいました。
 山頂に輝く白い雪、青々と茂る目の前の木々、銀河のように流れる川、こういう風景を見て、長野県は山も美しく、木も美しく、人はもっと美しいと思いました。長野県、私の故郷、アイラブユーと心から言いたいのです。

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