2016年12月号 

ナルクの会員同士の助け合い活動は、短い時間であっても、ちょっとした声掛け運動であっても、思いやりが底に流れていて、会員同士という安心感が根底にあり、心が温まるという。そんな活動から地域で新しい出会いが生まれ、手間のかかる難しいサービスも気兼ねなく頼むことができるようになるのではないだろうか
▼会員同士の友情が生まれれば何でも頼めるし、新年会に得意料理を小脇に抱えて出席する風景も生まれる。あまり足が進まない総会にも出席したくなる気持ちが生まれるはずだ
▼どんなに難しい研修会であっても、逆にどんなに平凡な集会であっても、声掛けがあれば出席率が高まるというものである
▼このナルクの良い点を伸ばし、今日の無縁社会と言われる中でも、「ナルクにはまだまだ良さが残っている」と言われるような、そんなナルクになってほしい。さしずめ、会員の減少している拠点から「声掛け誘い合い運動」を徹底してはどうだろう。(高畑 敬一)

2016年11月号 

ナルクが最も基本とする時間預託制度は、会員にならないと助け合いを受けることができないとされている。特にボランティアをしたことがなく入会早々の人は、サービスを受けるには預託点数の代わりに、一時間500円程度の寄付金をもらうようにしている
▼時間預託制度の特徴のもう一つは、全国どこの拠点でも同じように点数が使えることである。この全国ネットの時間預託制度を有効ならしめたのは本部が中心となって、数多くのマニュアルを作ったからである。これは他のボランティア団体には見られない珍しいことであり、拠点や本部の役員になられた方はこのマニュアルを一読してほしい
▼次に関心を持って欲しいのはボランティア登録票である。入会時に、ボランティア可能な時間帯や頻度を記入して拠点で保管している。これにはコーディネートの貴重な資料になる。またコーディネーターは最初は皆素人なので、代表や運営委員の中で会員に信頼のおける人がなるとよい。(高畑 敬一)

2016年10月号 

日本選手団の大活躍を連日テレビが放送してくれて、一億総寝不足に陥っているのではないかと心配した。騒ぎも収まってリオデジャネイロを訪れたときのことを思い出した。丘に立つキリスト像や美しい海岸が映し出されると、その場にいるような錯覚を覚える
▼2月下旬に行われるカーニバルは世界最大のお祭りの一つ。全国各地から集まったサンバチームが腕を競う。いろいろな扮装をした男女が群れをなし、朝早くから一日中踊り続ける。町の真ん中ではコンテストが行われ、今年のNO1を決める
▼オリンピックの閉会式では見事な演技を見せてくれたブラジル人がカーニバルに注いだ力を経済復興に結集すれば、資源も人口も豊かなので未来は明るいのではないか。ついこの国に注文をつけたくなる
▼次の東京オリンピックは大丈夫か。金のかからない大会にすると関係者は言っているが是非実践して欲しい。メダルの数ばかり追求するみっともない日本人の姿はこれ以上見たくない。(高畑敬一)

2016年9月号 

この7月は大阪松竹座で「関西歌舞伎を愛する会」の公演が催され、中村雀右衛門の襲名披露が華々しく開かれた
▼鑑賞券が手に入ったので家内と長女を連れて夜の部を観てきた。イヤホンガイドを借りたので、歌舞伎になじみの浅い二人もよく理解できたようで、面白かったと喜んでいた。家に帰ってからもしばらくは歌舞伎の話で持ち切りだった
▼私が松下労組の委員長時代に政財界・労組に声を掛けて「関西で歌舞伎を育てる会」を創始したとのニュースについては、状況や経緯を丁寧に説明した片岡仁左衛門の記事があるので本誌二面に掲載しておこう。参考に読んで頂きたい
▼「関西で歌舞伎を育てる会」がスタートしたときは昼間の公演を行うのがやっとだったが、楽しみは回を追って盛んになってくる。労働組合と歌舞伎にはどんな関係があるのかとやゆされたが、何事も石の上にも三年を要し、強力な指導力を持った団体がリードすることが決め手になると痛感した。(高畑敬一)

2016年8月号 

昨年2月、大阪中之島の中央公会堂において、「終活セミナー」を開いた。講師陣には証券会社や公益社、銀行の支店長にお願いした
▼テーマは、資産対策と相続の問題。定年退職時に貰った退職金が低金利の時代に入って一向に増えない。法律が変わって、ごく少数の人だけに課せられてきた相続税が多くの人が課税対象になった。親から譲られた資産に高い相続税が課せられるかも知れない。困る人が増えるのではないか、というのがセミナー開設の理由であった
▼結果は大成功で、大垣拠点で実施している「時間預託を使ってのナルク葬」の紹介もあり、名実共に身近な「終活セミナー」となった
▼ぼつぼつ「第2回を考える時期なのでは」と、本部としても考慮中であるが会員からのお知恵も拝借したい。特に付け加えたいのは介護問題である。親や配偶者、あるいは自分自身が要介護になった時に、介護保険のサービスとナルクの支援をどのように取り合わせるかが大切である。(高畑敬一)

2016年7月号 

かつて、「ボランティアに有償などあり得ない」と激しく非難したのは日本の古くからあるボランティア団体の幹部である。そこへ社協や政府も加わっての大合唱になった
▼批判を受けたのは女性中心の介護ボランティア団体であったが、ナルクも「時間預託は点数に代償を期待するから有償ボランティアである」と言って社協への入会すら拒否された。先輩格の西欧やアメリカのボランティア団体も「国際ボランティア4原則」にある「無償性」「自主性」「社会性」「創造性」を全面に出して「無償性」は譲れぬ所と駄目を押してきた
▼しかし、ナルクの会員が献身的にボランティア活動を行って、評価が変わってきた。時間預託そのものが無償で、会員、即ち活動者が金をもらわないので、ナルクを無視できなくなったのである
▼今日、地域包括ケアの対応のなかで、無償、有償の議論を超えて、ボランティアは提供力を重視することに変わってきたことを見逃してはならない。(高畑敬一)  

2016年6月号 

ナルクの拠点を次々に作っていったころのこと。拠点を作りたいと名乗り出た方には、必ず事前にお会いして、ご本人の資質や情熱を確かめた。発足後も、うまくスタートできるように、結成準備委員会や設立総会には必ず足を運ぶのを常としていた
▼それらの人々を私は「一粒の種」と呼び、大切にしてきた。彼らもそれに応えてくれた
▼最近、本部も拠点も財政難で、みんなで集まるという機会が少なくなったのは淋しい限りだ。私も以前のように毎年各地の総会に顔を出すということも少なくなった。
▼拠点の幹部と膝を交えて話し合いたいのだが、その機会が減った
▼しかし拠点の有力幹部は、どんなときも元気を出して皆の前に顔を出していただきたい。そしてナルクのために尽くしていただきたい。
▼拠点会員の中には話し相手がおらず淋しがっている人も多い。コミュニケーションのとれている拠点では「代わりも決めず、代表を降りてしまう」といった問題など出ないはずだ。(高畑敬一)

2016年5月号  

ナルク本部の近くには、大阪の名所旧跡が数多くあるのだが、案外知らない人が多い。中央区釣鐘町の住友生命釣鐘屋敷跡にある鐘楼もその一つである。町名にもなっているが、4度の火災をくぐり抜け、今も変わらぬ音色で朝晩大阪市民に時を知らせている
▼京阪電車天満橋から徒歩10分ぐらいだが、ナルク本部に荷物を預け、ぶらぶら歩くのも良い
▼戦時中は大砲が正午の時(ドン)を知らせていたが、鐘は一時大阪城に預けられ、その代わりをした時代もあった。古くは曽根崎心中の主人公、忠兵衛と梅川もこの鐘の音を聞いたはずだ
▼ちなみにこの鐘は寛永11年7月頃、三代将軍徳川家光が寄進したもので、その時は船で淀川を下って大阪城まで運ばれたといわれている
▼そのほか大村益次郎、福沢諭吉が学んだと言われる適塾や、朝ドラで注目を集めた五代友厚氏の銅像もナルクのすぐ近くにある。少し足を伸して、万博記念公園の日本庭園を一巡りというのもお勧めだ。
(高畑敬一)

2016年4月号  

ナルクの会員は年を重ねても健康管理に努め、可能な限り、人様や社会のために働いて、生涯現役を貫こうと考えている。ナルクで活動すればそれが可能であると信じていた人が多い。でも自分で自分をコントロールすることは至難の業である
▼医師の日野原重明さんは食事のコントロールを目指した。三浦雄一郎さんは毎日、登山の荷物を担いで鎖を引きずって歩くトレーニングを課して、80歳になってもエベレスト登頂の目標にチャレンジし続けた。私たちも、毎日の1万歩ウオ―キングなどは可能である。要は続けることだ。そして年齢を重ねても人生において熱・気力を失わないことである
▼ナルク八十路会の皆さんの多くは気力を強く持って、九十歳、百歳へ向かっての目標を高々と掲げている。ぜひ新しい日本の高齢者になっていただきたい。世間一般の高齢者とは異なる新しい生き方を目指して欲しい。それが八十路会の主旨に賛同した本来の心ではないのか。(高畑敬一)

2016年3月号  

年が明けた最初の休日、東神戸拠点の会報100号発刊記念を兼ねた新年会に出席した。会は大いに盛り上がったが、感心させられたのは竹内元代表の協力ぶりである。拠点の催しには率先して出席され、細かな心遣いをされる由。退任するとさっぱり顔を見せなくなる元代表が多い中、今も竹内さんは皆から信頼されている
▼このような例は交野拠点にもある。前代表の豊島さんは退任されて5年以上にもなるのに、拠点の総会には必ず出席されて、始まる前にはいすや机を並べて、会議の時は隅に座り、終わった後は、率先して後片付けをされるという
▼こういう代表がいる拠点は、代表の交代で混乱するということはない。一朝一夕にできることではないが、日ごろから自分が辞めると決めた時は、次の代表を決めておくのが会員に対する礼儀であり、思いやりである。竹内、豊島両氏に見習ってくれたら、もっとスムーズな拠点運営ができるのでは。やはり日ごろの行いが大切だ。 
(高畑敬一)

2016年2月号  

嫁いでいる娘二人が家の近くに住んでいて、家内が入院中にはよく面倒を見てくれた。正月には3人で大阪天満橋の京料理点「美濃吉」に出かけた。さすが名のある店だけに味付け、盛りつけ、全てが満点、娘たちも大喜びだった
▼雑煮が出てきたが、白みそに丸餅という関西風の雑煮は私も珍しく、一番喜んだのは私だったかも知れない
▼私の郷里、富山県射水市小杉町は辺り一面田んぼで、戦後の食糧難の時代でも、雑煮だけは腹一杯食べられた
▼実家から4、5キロ離れた所はもう海で、浜の人たちが毎朝、自転車でとれたての魚を売りに来ていた。一番よく買ったのは大衆魚の鰯だった。年末にそれをたくさん買い込んで、母が大晦日の夜に、せっせとすり鉢でつぶして「ツミレ」を作っていた。これが雑煮の出汁になる。子供や孫たちは「おばあちゃんの作った雑煮は日本一」と自慢する
▼カルタや双六、百人一首の思い出もあるが、食べ物の思い出が一番だ (高畑敬一)

2016年1月号  

関西八十路会の皆さんがまとめた小冊子「私の戦争体験記」が、シニア社会学会の理事会で話題になり、体験記を広く集めようという声が上がっている
▼私も日本の古きよき時代の家庭の温かさや助け合い社会の良さを書き残すべく、一筆啓上することに決めた。
▼私が生まれ育った富山県射水市小杉町は江戸時代から続いている半農半商の小さな宿場町である。春秋のお祭りや、お正月にはタンスにしまってあった晴れ着を着せてもらうのが楽しみだった。男子が産まれると、鯉のぼりではなく、お正月に「学問の神様」として崇められていた菅原道真の肖像画がかけられた。
▼私の父は農家の次男坊で、農業が嫌いで東京に出て建具・家具の職人になった。
▼食事の時は箱膳に座って威儀を正し、「いただきます」と挨拶してからでないと食事にありつけなかった。箱膳の上には必ず二合徳利が置かれていた。酔ったときの教訓はただ一つ、「弱い者いじめをするな」だった。(高畑敬一)